「その時に備えて」に備えて(5) 千代田区神田カテキズム? -田口望

田口望
田口望

 

 

 

 

田口 望
大東キリストチャペル 教役者
大阪聖書学院 常勤講師
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 論説委員

これは対話ではなく教化の手段

プロテスタントの中には聖書そのものを重視し、あまり、信条や教理問答などを作らない教派も、ありますが、一部の教派ではカテキズム(教理問答)というものを大変重んじるグループも存在します。そして、今回JEA社会委員会が出版した冊子「その時に備えて」はそのカテキズムの体裁をとっているがために厄介なのです。カテキズムそのものを批判している訳ではありませんし、私自身は大変有用なものと評価しているのですが・・・


プロテスタントの歴史においては「ウェストミンスター小教理問答(1640年代)」は有益なカテキズム(教理問答)の代表例といえます。

ウェストミンスターの独立による「良心の自由の表明」1847年

ウェストミンスター神学者会議(1642年)で国中の見識深く信仰深い学者が喧々囂々の議論をして、自分たちが信じている信仰の内容を整理し、定義し、理論化し、一致したものを一般の信徒に教化育成するためにQ&A形式の問答集を作成しました。大教理問答と小教理問答が作成されたのですが、特に小教理問答は教理についてエッセンシャルな部分をまとめ、家庭で毎日そのQ&Aの形になっている小型版の問答集を反復、通読することを通して次代を担う青年たちにウェストミンスター会議で得た果実を伝達啓蒙することを企図して作成されたと言われます。識字率が低く(一説に50%程度だったといわれます)、本も一冊の値段が高く、情報伝達の手段が限られた時代においては、当時の叡智を結集し、そこで得られた最高の成果を広く隅々にまで拡散するのに大変優れた手段でした。また、現代においても特定の集団の中で十分に議論され既に意見の一致をみていることを確実に次世代に継承するためには現代においても大変有益な方法だと思います。

 JEA社会委員会は教理問答を作成する機関なのでしょうか?

 しかし、見解がその集団の中で別れている問題に対して、特定の考え方に基づいてカテキズム形式をとることは大変問題です。この「その時に備えて」という冊子を用いた集会の開催を紹介するクリスチャン新聞の記事では「教会、青年、家庭の視点で考え方を深める」とあり、またこの冊子自体もQ&A形式になっています。このコンセプトそのものが、さながら小教理問答のようです。カテキズムを持つ教派のカテキズム的な思考方法であり、既に特定の考え方に立った人が、知識の至らない人たちを啓蒙し、意地悪く言えば、特定の自らの考えに染め上げようという前提でつくられたのではといぶかってしまいます。本当に天皇制に関して考え方を深めたいのであれば、天皇制擁護派と批判派が討論したものを載せたり、論点においても前項で挙げたように、天皇制存置によるメリットや天皇制廃止によるデメリットが一切考慮されていません。仮に、Q&A形式にするにしても、問いに対して擁護派と批判派の双方の回答を併記して読者に判断をゆだねる形式であればよいのですがそうもなっていません。
ちなみに、本家ウェストミンスター神学者会議においても教会をどのようにマネジメントするかということについては各教派で意見が分かれ、別れている部分は教理問答には盛り込まれてはいないのですが…

 このような状態で、ウェストミンスター教理問答にかわる「千代田区神田カテキズム」が広まることに大変な危機感を覚えます。

 

本当はキリスト教は論理的であり同時に謙虚な教え

ここで一つ、クリスチャンでない読者の方に弁明することをお許し頂きたいのです。

宗教にハマるやつは、というのは論理的でなく、直感的であり、また、キリスト教のような一神教は独善的で横柄であると考えておられるなら、是非その方たちに弁明させて下さい。

キリスト教によれば、この世界は「神はことば」によって創造されたといい、また、キリスト教の救い主キリストも聖書の中で「ことば」というふたつ名で呼ばれることもあります。そう、それほどまでにキリスト教は「ことば(ロゴス)」を大事にします。ですから、その思考もフィーリングだけに限らず、ロジカル(論理的)であることも求められます。また、日本では一神教は偏狭で横柄というイメージが定着していますが、本来は大変謙虚な考えになるはずなんです。歴史上、キリスト者の歩みが必ずしもそうなっていないのは残念ですが、唯一絶対なのは神様だけであり、人間は、たとえ信者であっても絶対的な神様からみれば相対的であやまちを犯す存在であると聖書は教えています。聖書の中でも、聖書の唯一絶対の神を信じていながら、誤った考えに陥って、信者でない者から鼻っ柱を折られた信者の話がいくつも書かれているのです。

今回の天皇陛下の御代替わりをめぐる一件がみなさんのキリスト教に対するイメージのつまづきになりませんように。私も含めて「自らの考えにも過ちがあるかも知れない」と、心の片隅で留保しながら、論理的で謙虚に思考を深めていけたらと願っています。